鹿児島薩摩義士顕彰会

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薩摩義士

鹿児島薩摩義士顕彰会

薩摩藩による木曽川治水工事

 1753年(宝暦3年)、徳川幕府は琉球貿易によって財力を得ていた薩摩藩を恐れて、毎年氾濫による被害が多発していた木曽三川の分流工事を薩摩藩に命じ、露骨な弾圧政策に薩摩藩は徳川幕府への反発を極め、このまま潰されるくらいなら徳川家と一戦交えようという過激な意見まで噴出したが、平田靱負翁が「民に尽くすもまた武士の本分」と説破して工事を引き受けることとなり、平田翁は総奉行となる。

工事に派遣された薩摩藩士達の過労や伝染病による死亡が相次ぎ、また幕府に抗議して切腹する薩摩藩士達も続出した。この件に関して、平田翁は幕府との摩擦を回避するため、切腹した藩士たちを事故死として処理している。最終的に病死33名、自殺者52名という多大な損失を薩摩藩は被ることになった。分流工事は着工より1年3ヶ月ほどでようやく完成したが、平田翁は藩への多大な負担の責任を取って自害。享年50。辞世の句は「住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧」。



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